せいざん画廊

「せいざん画廊」、青木せいざん、 古川博久 の作品を紹介します。
       所在地 鹿児島県姶良市加治木町                  △問い合わせ メールアドレス f.hiro@leo.bbiq.jp

2022年11月21日月曜日

2022年作品「時間の肖像Ⅸ 自画像」   

 拝啓M様

お祝いのメールありがとうございました。
この展覧会に於ける新聞社賞、これも遅すぎた感はあります。
一つの目標ではありましたが取り組んでいる事の通過点です。
それは30年来理解をもらえにくい仕事に取り組んでいて、ある程度理解を得るには
こんな実績があったらいいのかなあ、と思ったのですが、
ここに辿り着くまで時間が掛かりすぎました

普通の陶芸の仕事であれば今回のような受賞を重ねて経歴を箔付けし、デパートあたりの画廊で受賞記念の個展を開き、入選入賞歴を誇らしげに掲げることを販促にする、私はこうういうやり方は一切考えていません。

私の持つ価値観が世間に受け入れられるものか自分で納得でき自信を持つには必要でした。
これで次のステップへ進めます。それは30年前に考えたあの手のひらにのる小さな土塊です。
世の中に百人の人の中にたった1人でも喜んでくれる人がいたら出す価値があると思っています。
展覧会のこの作品「時間の肖像」はシリーズとしてもう少し先がありますので
来年も続けます。この公募展の会場を借りた個展ですから。
普通個展を開いても観に来てくれる人はせいぜい200人程でしょうが
新聞社主催の展覧会ともなれば、その50倍もの不特定多数の人に観てもらえます。
陶芸が工芸の域をはみ出してもファインアートとしてやっと認めてもら得た思もしています。
ただ、35年前、あの東京の現代美術系画廊「いそがや」での個展がシリーズの始まりでした。
失われて行く時間で死生観を表した取り組みでした、また南日美展のシリース9点は新しい作品ではなく
すでに描いていました。10年前に出品した「時間の肖像1」は35年前に制作して山のアトリエに展示したいたそのものです。
しかし審査評は「現代美術のお手本になるような作品です。哲学的な・・・」と新聞に書かれています。つい笑ってしまいました。
友人O君の事や彼と一緒に移動式陶芸窯を作ったりしながら今を待ちました。
やっとそんなテーマが似合い、受け入れてもらえる老人になったという事でしょうか。
想像してみてください。 円空のような生き方の1人の無名、無冠の老陶芸家)ただひたすら小さな壺を造る為に
ロクロを回している光景を。それが私が描いた陶芸家像で作品はその人物像です。
それが目標です。そこまで行き着いたらおめでとう、と言う言葉を素直に噛みしめて喜びたいと思います。
















































 

















2015年7月9日木曜日

塩釉ビアカップ

パリのヴァンヴ(蚤の市)で見つけた塩釉ビアカップ。
アメリカのフリーマーケットでは30年機会あるごとに探していたけど
欲しいと思っているものに出会わなかった。
まさしく塩釉そのもの。
なかなか少なくなった。



窯の温度が1200度ぐらいになったら
砕いた岩塩(砂利ほど)を窯の中に投入する。
窯のサイズによって差はある、10キロぐらいを4~5回に分けて
投入する。
塩は霧状になって窯の中に充満、器物に降り注ぐ、
と器の表面に付着し粘土の珪酸と塩のトリウムナムが結合、珪酸ナトリウムが形成され
融点が下がる。と表面が熔けてガラス化する。これが塩釉。

表面が熔けてガラス化している

ドイツで考えられた焼き方。
これは70年ほど前にフランス北にドイツから伝わった技法で焼かれたものらしい。

底にも塩釉の効果が出るように窯入れの際に
耐熱物の粒で浮かせるので底も熔ける。

  アメリカやヨーロッパのアンテックショップでは見かけるけど値段が高い。
フリーマーケットで10ユーロで買えた。(2015年5月)
 

自作塩釉カップ



2015年5月10日日曜日

またダリの時計

2015年5月9日
パリ国立近代美術館前のショップで見つける。
ベネチアで見つけたものと少しデザインが違う。
アートを商品化した時計といえばダリしか見ない。
私もそうなのだけど・・・・

2011年7月30日土曜日

     「画家 宮滝恒雄」

     08年自由美術展 宮滝恒雄 「存在」
 
                        油彩   160号

 宮滝先生の絵画制作は学生時代から日本美術会および自由美術展
 を舞台に2009年亡くなるまで50年続けられました。

 先生は日本の「意匠法概論」を執筆された特許法の専門家でしたが
 人生を賭けて取り組まれた対象はその範疇に留まっていませんでした。
 それらは趣味の範囲ではなく、それぞれが専門的でした。
 絵画や陶芸は特に・・・
 
 先生の絵画のテーマの多くは「存在」でした。
 今に思えば、なぜこのテーマに拘ったのか聞かなかったことが悔やまれます。
 神奈川の山北で窯を焚きながら聞かせてもらった話で
 「・・・少年時代、死に至る病に掛かり、入院している夜中
 隣に寝ている闘病仲間が死んで、連絡しても放っておかれ
 朝まで亡骸と隣り合わせでした・・・
 私は多感な青春時代にそんな経験をしていました。
 この世に神仏があるののだろうかと、
 大学を卒業し再び神学部に学士入学して宗教を学びました・・・・」
 こんな話をされていた宮滝先生の
 絵や陶芸に向かう姿勢のどこかに少年時代に死と向かい合った体験の影響が
 あるのではないかと感じ取ろうとしました。
 答えは憶測の域で、そのうち質問してみようと・・、そう思っていました。
 でも、その機会は永遠に失いました。

 抽象画は、観る人が感じたまま受け止めればいいと、よくいわれます。
 しかし、それでは理解できないと感じられる人は多いのでは・・
 感じたままでも充分なのですが・・。
  NHKの日曜美術館をみていると、抽象作家の場合
 絵画にしても彫刻にしても、作家の制作意図を知って
 初めて、なるほどそうだったのか・・と思うことは多いです。
 ・・・・・・。
 先生は私に、「作品は今、評価される事を目標にするのでなく
50年100年先に、どう評価されるか見据えて制作しなさい。」と、よく言いました。

2002年、宮滝先生は 
自由美術協会史を編纂され、巻末に文章を寄せられています。
ここに、先生の絵に対する考え、姿勢が見えます。
それは取りも直さず、先生の生きる姿勢そのものに思えます。

「・・・・・・・・・
かつて先人がいだいたこだわり、それゆえに生み出した証言としての作品、
これらが問い掛けてくるものを感知するところから、
我々はこの自由美術協会を引き受けていかなければならない。
 ※ 2002年「自由美術協会史」 文責 宮滝恒雄、福田篤」

「・・・人間存在のあらゆる分野にわたって、人間存在を否定する条件が浸透し、蔓延している。そういう状況の中で制作するということを、どう意識するのか。あるいはしないのか。・・・」
自分には厳しく妥協を許さない人でしたが他人には思い遣りが深くやさいいでした。
宮滝先生の絵の題に「存在」「状況」が多く在るのは、
この文章にある言葉と一致する気がしますが、
今となっては推測でしかありません。聞いておけばよかった・と、先生の絵を観る度に思います。
2009年秋、せいざん画廊のオープンは宮滝先生と私の2人展を二人で計画していましたが
果たせませんでした。


                           2011年8月        せいざん画廊   古川博久
   ※宮滝先生の絵画へリンク